2025年6月8日日曜日

イエスさまの深い悲しみ

聖書箇所 マルコによる福音書1432-34

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。マルコによる福音書1434

1.祈りの依頼

イエスさまは「悲しみのあまり死ぬほど」と弟子たちに言われます。そしてあなたがたの祈りで支えて欲しいと願われました。その人の立場に立って祈る祈りがとりなしの祈りです。とりなす人を通して、神さまの力が祈られる相手に働きます。そして霊を励まし、力づけ、大きな戦いをも乗り越える力を与えます。イエスさまはこのとりなしの祈りを弟子たちにお願いされたのです。

2.死ぬほどの悲しみ

イエスさまは、「悲しみのあまり死ぬほど」に悩み苦しまれていました。それは単に十字架による死への恐れではありませんでした。イエスさまは父なる神さまとは互いに愛し合う親子の関係です。しかしイエスさまが全人類の罪を負って罪人となることで、罪を嫌う神さまからこの上もなく憎まれます。親子の関係が絶ち切られて、罪の罰として十字架で死に追いやられるのです。これがイエスさまにとって身を引き裂くような悲しみとなっていました。

3.弱弱しい姿

私たちはイエスさまの弱弱しく見える姿から、自分の罪の大きさを見て心に刻む必要があります。また同時に私たちに向けられているイエスさまの大いなる愛を見るのです。深い悲しみでこれ以上ない弱さを経験されたイエスさまは、私たちのすべての弱さをご存知です。そのイエスさまが、今日も明日もいつまでも私たちを最善に導いてくださいます。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」という約束を握りしめて、イエスさまと共に歩みましょう。

202568日 週報より


2025年6月1日日曜日

私の弱さを知る神

聖書箇所 マルコによる福音書1426-31

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に ガリラヤへ行くであろう」。マルコによる福音書1428

1.散らされる羊

イエスさまは、「羊飼いであるわたし(イエス)を神さまが打たれることによって、羊である弟子のあなたがたは散り散りにされる」と言われました。この先弟子たちが皆、イエスさまを置いて逃げてしまうことを予告されているのです。それでも尚、弟子たちをあわれまれるイエスさまの愛の大きさがここで示されています。これは弟子たちが信仰にとどまり続けるための備えとなっているのです。

2.羊飼いなるイエス

イエスさまは、「よみがえってから先にガリラヤに行く」と言われています。また「わたしはあなたがたの弱さをすべて知っています。弱さゆえに散らされたあなたがたをわたしは決して責めません。あなたがたを訓練してきたあのガリラヤで待っています」と言われます。ここで集められた弟子たちは、大いに励ましを受けて、キリストの復活の証人として遣わされていきます。

3.羊の弱さを知る羊飼い

ペテロは自分の頑張りで乗り越えることができると信じて、「私は決してつまずきません」と言います。しかしイエスさまは、「今夜、三度わたしを知らないと言ってあなたも必ずつまずきます」と言われました。果たしてペテロはその通りに自分の弱さを痛感させられます。しかしすべてをご存じでいながら、愛し続けてくださっているイエスさまを思い起こして、イエスさまに立ち帰るのです。私たちも「主のあわれみと愛によって、弱い自分が信仰の歩みを続けられているのだ」といつも心にとどめておくことが大切です。

202561日 週報より

2025年5月25日日曜日

神さまからの贈り物

聖書箇所 マルコによる福音書1417-25

イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」。マルコによる福音書1424

1.ユダを追い求めたイエスさま

イエスさまは、弟子の1人がイエスさまを裏切ると言われました。この時他の弟子たちは、ユダの裏切りを悟れませんでした。  イエスさまはユダだけにわかるように、そして他の弟子たちが知って騒がないようにされたのです。ユダにイエスさまに立ち帰るためのチャンスを与えるためです。イエスさまは私たちを愛して、どこまでも追い求め続けてくださるお方なのです。

2.与えられている信仰

この時点でもイエスさまは、ユダに対して愛の御手をのばされ、愛あるお声がけを続けておられました。しかしユダはその御手をはねのけて、自分から滅びの道を選んだのです。このように神さまは、私たちが悟れるように思いを与えて、導き続けてくださいます。  私たちの信仰は、神さまからの働きかけ、神さまからの贈り物なのです。信仰は人の知恵や人の理屈で納得していくものではありません。私たちはただ信じて受け取るだけで良いのです。

3.キリストのからだと血

キリストのからだをいただき、キリストの血を飲むとは象徴的な表現です。これは罪の赦しと、神さまとの関係の回復を喜ぶことです。そしてキリストの花嫁として、イエスさまのお体の一部分とされていることです。この意味と大切さを人の頭で完全に理解し、  納得するのは難しいでしょう。そこで神さまは聖霊を与えてくださいました。聖霊が私たちの理解を助け、神さまが与えられる信仰に立てるようにしてくださるのです。

2025525日 週報より