2025年1月5日日曜日

祈りの姿勢

聖書箇所 マルコによる福音書1120-26

イエスは答えて言われた、「神を信じなさい」。      マルコによる福音書1122

1.弟子たちへの教え

実は弟子たちの中にも目に見える神殿そのものを信仰するような部分がありました。イエスさまはそんな弟子たちの危うい信仰を見えない神さまに向かう信仰に入れ替えようとして教えをされています。私たちもイエスさまにどこまでも信頼していくなら、見えない神さまに信頼する信仰の土台を神さまが備えてくださいます。

2.信仰で祈る

ここでイエスさまは、神さまの全能の御力への信頼をもって祈る大切さを示されています。それは「人にはできない事も、神にはできる(ルカ18:27)」と、私たちには思いも及ばないところにも働く神さまの無限の御力を信頼することです。つまり祈りは言葉によってではなく、信仰で祈るものです。それも絶対的信頼で祈るのが祈りだと教えられています。

3.祈った後の信仰

祈った時点ですでに神さまがかなえてくださっていると信じたならば、疑ったり、思いわずらったりすることはなくなります。神さまは時間を超越したお方であるので、神さまの目から見れば、将来のこともすべてが今の出来事のようにかなえられています。神さまが御心の内に、祈ったすべてを実現されると確信することができれば、祈った後も疑うことなくすべて神さまにお任せできるでしょう。この祈りの姿勢が、神さまの望まれる信仰者の姿勢であることを教えられています。

202415日 週報より 

2025年1月1日水曜日

お言葉をそのまま受け取る

聖書箇所 ローマ人への手紙108

言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。        ローマ人への手紙108

1.パウロの願い

パウロはユダヤ人でしたが、異邦人の救いのために遣わされました。そして、同じユダヤ人の救いをも心から願っていました。ユダヤ人たちは律法を守るための決まりを自分たちでたくさんつくり、それをひたすら守っていたのです。しかしパウロは、律法を守るという行いによる義ではなくて、救い主イエスさまを信じて、信仰による義へと彼らを導こうとしていました。

2.パウロの導き

パウロは「イエス・キリストが十字架の死によって神の義をいただける道を備えてくださいました。そのイエス・キリストを信じるだけです。そうすれば神の前に義とされます。人の頑張りや律法を守ることで神の義を得ようとする必要はありません。神さまに心を向けていれば、神さまの前に義として歩むことができるように神さまがしてくださいます」と言っています。

3.私たちへの導き

ユダヤ人たちの間違いの始まりは、神さまのお言葉を頭で理解し納得しようとしたことでした。これに対してパウロは、「神さまからのお言葉は私たちのそばにあり、私たちの口にあり、私たちの心にあって、それを行うことができるように神さまが力をくださるのです」と言います。近くにあるお言葉を遠くしているのは、世的な考えや自分の頭で納得したいと思う思いなのです。私たちも聖霊のお導きをいただきながら、お言葉を素直に受け取りましょう。お言葉を身近なものとして新しい一年を歩んで参りましょう。

02511日 元日礼拝プログラムより

2024年12月29日日曜日

心を見られる神

聖書箇所 マルコによる福音書1112-21

そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。

 マルコによる福音書1117

1.実のないいちじく

イエスさまがここで言わんとされているのは、神殿での人々の行為がこのいちじくの木のようだということです。人々の礼拝の様子は一見、信仰深そうに見えていました。しかし、人々の心は神さまに向いておらず、神さまの望まれる実がひとつもない姿であるというのです。そし彼らは、枯れたイチジクの木のように神さまに見捨てられてしまうというものでした。

2.心のない神殿礼拝

神殿は人々が見えない神さまの存在を感じ、信じるためのしるしでした。そして神殿は神さまに祈るための祈りの家でした。この信仰に立つのが神殿での礼拝でした。しかし、イエスさまが神殿を見回られた時、神さまに心を向けて祈る信仰は見られず、形ばかりの礼拝が献げられていたのです。今は礼拝を教会でお献げできる恵みの時代です。しかし、礼拝が形だけのものにならないようにとあらためて教えられます。

3.自分を聖霊の宮として

神さまは私たち一人一人の心を見ておられます。心のない形ばかりの礼拝では、ただ神さまを低く見ていることを示すだけです。そんな神殿の状況に終わりを告げようとされたのが、イエスさまの宮での行為でした。聖書は信じる私たち自身が、聖霊の宮であって、目に見えない神殿であると言います。私たちは、聖霊の宮としての自分を神さまのものとして歩むようにと望まれているのです。

20241229日 週報より