2025年6月29日日曜日

十字架の重さを知る

聖書箇所 マルコによる福音書1437-42

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。マルコによる福音書1438

13度の祈り

イエスさまはゲッセマネの最初の祈りで勝利されました。しかしその後2度、3度と祈られています。それはイエスさまが背負われる罪が途方もなく大きく、重いものだったからです。私たちはイエスさまが身代わりとなり背負われた罪、そしてそのためにかかられた十字架の重さに目と心を向け続けなければなりません。

2.弟子に願われた祈り

人は神さまからの力に燃やされる心()を持ちながらもサタンの誘惑への弱さもあります。信仰者は霊的な目を覚まして祈ることが大切です。ここでのイエスさまの祈りに倣い、聖霊を意識して祈ることで、誘惑に陥らずに御心の内を歩ませていただけるのです。このとりなしの祈りは、イエスさまのためだけではなく、弟子たちが十字架の重みを知り、誘惑に勝つ祈りをするためでもありました。

3.示された十字架の重さ

もしイエスさまが、ゲッセマネでの苦闘をされずに十字架につかれていたらどうでしょう。人の罪がどれほど神さまの前に大きくてまた重く、罪への神さまの怒りがどれほど激しいかを悟ることはできません。神さまの前に自分の罪とその罪の重さを知って心砕かれた人が、ゲッセマネでのイエスさまの姿を正面で受けとめることができます。そしてこの時のイエスさまを弱々しいなどと決して思うことなく、示されているイエスさまの愛とイエスさまが担われた十字架の重さを心に刻むことができるのです。

2025629日 週報より

2025年6月22日日曜日

祈りで勝利されたイエスさま

聖書箇所 マルコによる福音書1435-36

「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」マルコによる福音書1436

1.地にひれ伏す

イエスさまは罪ある私たちの身代わりとなり、罪人として父なる神さまに裁かれます。互いに愛し合う親子の関係が絶ち切られることへの苦しみと悲しみに押しつぶされそうになって、イエスさまは倒れ込むようにして祈られました。私たちの罪に対する神さまの懲らしめがいかに重く、その苦痛がいかに大きいかを示されています。

2.人の弱さを知る

イエスさまは、神の力あるわざをなされ、霊に満ち堂々と歩んで来られました。しかし神であり人でもあるイエスさまは、ここで人としての限度を超える悲しみを経験されます。そして弱さを覚え、父なる神さまにすがっておられます。それゆえイエスさまは、私たち人の弱さを思いやることがおできになります。私たちの弱さをこのイエスさまにお委ねいたしましょう。

3.祈りで勝利する

イエスさまの中には、他の方法にして欲しいという自分の思いと、神であるあなたのみ心に従いたいという二つの思いがありました。イエスさまは祈りの中で聖霊の導きを受け、最終的に祈りによって自分の思いに勝利されます。「神さまのみ心に従います」との告白に至るのです。神さまは、私たちの祈りにならないようなつぶやきやうめきも聞いてくださいます。父なる神さまにまっすぐに向き合い、イエスさまの支えと聖霊の助けを確信して祈りましょう。そうすれば、私たちにも必ず祈りによる勝利が与えられます。

2025622日 週報より

2025年6月15日日曜日

尊敬される父とは

聖書箇所 出エジプト記2012節、創世記151-6節、13-16

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。  創世記156

1.神さまのルール

聖書は「父と母を敬う」ことを神さまの命令として私たちに伝えています。神さまは、ルールに従いなさいと言うだけではなくて、出来るように導きと力を私たちに与えてくださいます。では尊敬される父となるにはどのようにすれば良いでしょうか。聖書の中で信仰の父と言われるアブラハムについて見ていくことにしましょう。

2.アブラハムの信仰

アブラムもいつも神さまに従い歩めたわけではありませんでした。自分の嘘によって彼の妻がエジプト王の妻にされそうになったりもしました。しかしその都度、心を改めて神さまのことばに従い直しました。やがて自分の思い以上に神さまのことばを優先し、信じる者へと変えられていきます。そして神さまの祝福を受け、信仰の父と呼ばれるようになりました。私たちも神さまのことばを重んじて優先していくことで、神さまからの祝福が与えられます。

3.人からの尊敬

アブラハムは普通の人で失敗もありました。でもすぐに改めて神さまのことばを握りしめて歩んでいきます。そうすることで神さまから契約を結ばれるほどに信頼されるようになりました。神さまに信頼され用いられる人は、周りの人からも厚い信頼と尊敬を得ることができます。自分の考え以上に神さまのことばである聖書に従う人、また従いたいと願い続ける人は、神さまからも人からも信頼されていきます。そしてアブラハムのように尊敬される父(尊敬される人)となることができるのです。

2025615日 週報より