2024年10月13日日曜日

塩気を保つとは

聖書箇所 マルコによる福音書938-50

あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎ なさい。                                                                                                                    マルコによる福音書950

1.自分中心への戒め

ここでイエスさまは、弟子たちが自分中心に考える肉の思いから解放されるように、そして信仰の原則に立って神さま中心に物事を観て判断するようにと教えられています。私たちも神さま中心の見方をすることが大切です。神さまがご自身の計画の中で私たちにそれぞれの役割を与えておられるからです。これを覚えて歩む私たちを神さまが喜んでくださり、私たちを守り導いて用いてくださいます。

2.肉の思いへの戒め

手足を切り捨てるとか、目を抜き出せとか、衝撃的なことばに目が留まります。しかしイエスさまが伝えようとされているのは、肉の思いを軽く見てはいけないということです。前の箇所で弟子たちは誰が一番偉いかと議論していました。今日の所では自分たちだけが正当な弟子だと高ぶっています。彼らの心は肉の思いに支配されていました。イエスさまはここで「地獄」と言われています。「地獄」の恐さに震える以上に肉の思いの恐さに警戒していないと、「地獄」に投げ入れられるごとくにすべてが無駄になると強く戒めておられるのです。

3.塩気を失くすことへの戒め

イエスさまは最後に塩の話をされています。ここでの塩とは神さまの御心に対する全き信頼です。この塩の塩気、神さまへの信頼を削り取ってしまうのが、私たちの肉の思いなのです。いつまでも肉の思いを喜ばせることばかりに心を向けていれば、神さまへの信頼は薄れて、塩気を失い、かたちだけの信仰となってしまうのです。さらにこの塩気が、自分や他の信仰者をつまずかせずに互いに和らぐためにも大切であることを教えられています。

20241013日 週報より

2024年10月6日日曜日

☆ 10月6日(日)は、つくばバイブルバプテスト教会の小泉崇牧師夫妻をお招きし、特別集会~聖書とバイオリン賛美のひとときが開催されました。

礼拝

捜し求める神

つくばバイブルバプテスト教会 小泉崇牧師

1.聖書箇所【ルカによる福音書158-10節】

15:8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。

15:9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。

15:10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。 

午後賛美集会

賛美は麗しい

つくばバイブルバプテスト教会 小泉崇牧師

1.聖書箇所

【詩篇1471-3節】

147:1 主をほめたたえよ。われらの神をほめうたうことはよいことである。主は恵みふかい。さんびはふさわしいことである。

147:2 主はエルサレムを築き、イスラエルの追いやられた者を集められる。

147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。


2024年9月29日日曜日

誰が一番偉いか

聖書箇所 マルコによる福音書930-37

しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。       マルコによる福音書932

1.二度目の受難予告

イエスさまはここでもう一度、ご自身の受難について弟子たちに教えられています。しかし弟子たちはイエスさまの言葉を真剣に受けとめず、尋ねもしませんでした。それが彼らの期待とは全く違う、受け入れ難い内容だったからです。しかしこのようなことは肉の思いから来るもので、霊が育てられる機会を自ら手放すことになります。霊的な導きに気づいたならば、無視や拒否ではなく、素直に従うことが大切です。それが神さまに喜ばれ、祝福をいただく道だからです。

2.一番偉い弟子は誰か

受難予告の話題を避けて、弟子たちは「誰がイエスさまの次の位に就くのか」という肉の欲を満足させる話で盛り上がります。イエスさまは、そんな弟子たちを正しい霊的判断ができるように導かれています。「神さまに一番高いと見られたかったら、肉の目で一番低い人になって、仕えなさい」と教えます。さらに子供を受け入れることが、わたし(イエス)と父なる神を受け入れることだと言われました。

3.霊が育てられる歩み

イエスさまは、当時社会的に無価値と見られていた子供を真ん中にして教えられました。これは私たちへの教えでもあります。たとえば、イエスさまの受難告知のように肉の思いでは受け入れ難いことが示されたとします。それでも主にあって子供たちを受け入れるように、肉の思いから離れて、示された霊的事実を受け入れるようにと言われているのです。それが、私たちの霊を育てるために神さまが用意されたものと信頼して、受けとめ、また受け入れていくのです。そうすれば、肉の思いから解放されて、霊が育てられる歩みとなります。

2024929日 週報より