2025年4月20日日曜日

復活されたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1932-34節、ヨハネ201-2節、19-21節、コリント1517節、20-22節他

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。  コリント人への第一の手紙1517

1.イエスさまのよみがえり(復活)

聖書は、十字架上でのイエスさまの完全な死を記しています(ヨハネ19:32-34)。イエスさまは仮死状態で蘇生されたのではなく、完全に死なれた後、三日目に復活されたのです。弟子たちやお仕えしていた女性たちは、復活について事前にイエスさまから聞かされていました。そして実際に空になったお墓を目撃しました。しかし彼らもはじめはイエスさまの復活を理解出来ませんでした。

2.復活のイエスさまに会った弟子たち

この後、復活を信じられない弟子たちの所に、イエスさまが直接来られました。イエスさまの「安かれ」とのなつかしい声を聞いて、弟子たちはようやくイエスさまの復活を確信しました。そしてイエスさまの復活の証人として用いられていきます。

3.復活の意味

聖書は、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである(Ⅰコリント15:20)」と言います。初穂とは、作物の最初の収穫です。初穂が良ければ収穫も良いのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストの良い初穂(復活)に倣い、死んでも生きる者とされます。信じた私たちは、肉体が滅んだあとも霊において生き続けるのです。そして御国で相応しい体が与えられて、イエスさまとともに永遠に生きます。イエスさまの復活は、イエスさまを信じる者を死の恐怖から解放し、この世の勝利者とすることへの絶対的な裏付けなのです。

2025420日 週報より

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1212-13節、ヨハネ1913-15節、イザヤ535-7節、イザヤ5311節他

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。ペテロ第一の手紙224

1.民の心変わり

エルサレムの人々はイエスさまを大歓迎しました。しかしわずか5日後、人々はイエスさまを「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶのです。人々はローマ帝国の支配から解放してくださる強い救い主を求めていました。しかし、権力者たちの前にあまりに弱弱しいイエスさまの姿を見て、裏切られた気持ちが生じたのです。しかしこれもすべては神さまのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は神さまを無視して、おのおの自分勝手に生きてきました。これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの罪だらけの生き方(不義)を神さまはイエスさまの上に置かれました(イザヤ53:6)。そしてイエスさまは私たちの罪が赦されるために自ら十字架に架かり、死んでくださいました(イザヤ53:11)。すべてはイザヤの預言のとおり、神さまのご計画に従ってなされたことでした。

3.十字架の意味

イエスさまがなされた人を罪から救う業が十字架です。それは自動的に人を罪から救うものではありません。まず十字架の事実を受け入れ、神さまを無視して歩んでいた自分の罪を認めます。そして悔いあらためます(世から神さまへの方向転換をします)。イエスさまの十字架が自分の罪の救いのためであったと信じて受け入れることによって、この救いが自分のものとなるのです。だれでも信じる者は救われます。


2025
413日 週報より

2025年4月6日日曜日

苦しまれたイエスさま

聖書箇所 マタイ1621節、イザヤ533-5節他

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ書535

1.苦しまれたイエスさま

イエスさまは十字架で苦しまれて死なれました。ここから「苦しみ」と「十字架の死」は、一つとして理解されていることが多いように思われます。しかし聖書は、イエスさまの「苦しみ」と「十字架での死」また「復活」にそれぞれ意味があることを明らかにしています。きょうはまず「イエスさまの苦しみ」についてみましょう。

2.イザヤの預言

イザヤは、イエス・キリストが侮られて苦しまれる必要があることを預言しています。十字架にかかる前にイエスさまは、ローマのむちで肉体的な苦しみを受けます。その後ローマの兵士たちから軽蔑され、ばかにされて、精神的苦痛をも受けられます。それは罪人である私たちが受けるべき苦しみをイエスさまが代わって受けてくださったものです。

3.苦しみの意味

聖書の示す罪とは犯罪に限定されません。真の神さまを神として敬わないことや人の持つ悪い心、また自己中心の思いも罪です。全ての人はこの罪を持っているので、神さまから罪の罰としての懲らしめと苦痛を受けなければなりません。イエスさまは、私たちの罪を赦すために私たちの代わりに十字架に架かられました。このイエスさまを信じることで私たちは罪が赦されます。しかし犯した罪のあと(結果)は残ります。そこでイエスさまは、罪の懲らしめをも私たちの代わりにお受けくださいました。イエスさまが「苦しみ」を受けてくださったので、私たちには平安が与えられているのです。

202546日 週報より