2025年10月19日日曜日

キリストに満たされる歩み

聖書箇所 コリント人への第一の手紙126-31

それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。Ⅰコリント131

1.劣等感や優越感からの解放

コリントの教会の人々は、信仰を持ちながらも世の価値観に縛られていました。彼らは肉の思いで自分と人を比較し、劣等感に悩み、優越感を持ち続けたいと願っていました。知識人となることや高い地位を求めて、知恵を得ることに心を奪われたのです。私たちもまた、この世の価値観に影響されます。けれども、神さまが望まれるのは、世の基準で人と比べることではなく、御前に低く歩み、聖霊に助けられて心の内の肉の思いを取り除いていくことなのです。

2.無に等しい者

神さまは、世で「無に等しい」と見られる者をあえて選ばれました。それは、人が自分を誇らず、ただ神さまの恵みに依り頼むためです。聖書の中で取税人がへりくだって祈ったように、自分の無力さを知る者こそ神さまに受け入れられます。信仰とは、自力で自分を高める努力ではなく、神の前に「何もない者」であると認め、恵みによって生かされていることを感謝して歩むことです。

3.キリストに満ちる

私たちは、自分の価値や力によってではなく、神の恵みによってキリストに結ばれています。肉の思いからくる誇りを手放すとき、キリストが内に満ち、神の知恵と力が注がれます。誇るべきは自分ではなく主なる神さまです。自らを低くし、キリストに満たされて歩むとき、神の豊かな恵みが私たちに流れてきます。「誇る者は主を誇れ」―これが霊で生きる信仰者の姿です。

20251019日 週報より

2025年10月12日日曜日

十字架のキリスト

聖書箇所 コリント人への第一の手紙118-25

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。  コリント118

1.十字架のことば

パウロは、コリントの教会で起こっていた分派争いを、キリストの十字架の恵みを台なしにする愚かな行為だと諭しました。人の知恵で理解しようとする者には、十字架はただの愚かさに見えますが、信じる者には神の力そのものです。パウロは「神の知恵」ではなく「神の力」と語ります。十字架の真理は頭で理解するものではなく、霊によって受け取るものであることを教えているのです。

2.この世の知恵の愚かさ

神さまはこの世の知恵を無力なものとされました。人の知恵では神さまを知ることはできません。ですから神さまは、あえて「宣教の愚かさ」を通して信じる者を救う道を備えられたのです。福音は人を納得させるための理論ではなく、御霊によって心に語られる神さまのことばです。御霊の助けによってこそ、私たちは神の知恵を霊的に理解し、真の信仰に生きることができるのです。

3.十字架に示された神の力

ユダヤ人はしるしを、ギリシア人は知恵を求めました。しかし パウロは、十字架につけられたキリストこそ神の力、神の知恵であると言います。十字架は罪の赦しだけでなく、神の救いのご計画全体を示すものです。信じる者は、理屈ではなく信仰をもってその恵みを受け取り、御霊に導かれてひとつ心に結ばれていきます。そうして互いに愛し合い、仕え合う群れとして、私たちも歩んでまいりましょう。

20251012日 週報より

2025年10月6日月曜日

宗教の勘違い~思い込みから正しい理解へ

人は神、仏の前に裁きを受けるのか

聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1-6節

ここでは「善悪に基づく裁き」について、宗教的・思想的な視点から深く考察して語られました。冒頭では天秤座の神話を通じて、善悪の判断と裁きの象徴性が紹介され、人間の本性について中国思想の性善説・性悪説・混合説の三つの立場が示されます。現代社会の例として、企業の会計不正が性善説に基づく制度設計の甘さに起因することが指摘されました。聖書の「金銭を愛することはすべての悪の根源」という教えが引用され、人間の罪の性質が強調されました。

仏教における裁きの概念として、閻魔大王による死後の裁きと六道輪廻が説明され、地獄道から天道までの六つの世界への転生が、生前の行いによって決定されるとされます。また、庚申講の習慣では、三しの虫が人の罪を天帝に報告するという信仰が紹介され、仏教においても裁きの存在が明確であることが示されます。

一方、キリスト教では、ヘブル人への手紙に基づき、人は一度死に、その後神の裁きを受けるとされます。しかしキリストが人々の罪を背負って十字架にかかったことにより、信じる者には裁きではなく救いが与えられると説かれます。結論として、善悪の行いではなく、キリストへの信仰こそが救いの鍵であり、魂の永遠の行き先を左右する重要な教えであると結づけられました。