2025年7月13日日曜日

見えると言い張る罪

聖書箇所 マルコによる福音書1453-65

すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。 マルコによる福音書1464

1.死刑を目的とした集まり

イエスさまを死刑にする証拠がための裁判が大祭司のところで開かれます。イエスさまは死刑になるようなことは何もしていません。彼らは証言をするのですが、偽証であるがゆえに一致しませんでした。そこでイエスさまに語らせて、イエスさまの口より証拠となるべき言葉を引出そうとします。しかし、イエスさまは彼らの考えが良くわかっていたので何もお答えになりませんでした。

2.神を冒涜(ぼうとく)する集まり

業を煮やした大祭司は、「あなたは神の子、キリスト(救い主)か」と問いただします。キリストではない者が自分をキリストだと言えば、神を冒涜する罪に問えるからです。するとイエスさまは「わたしがそれである」と答えられます。ご自分を殺そうとしている者たちが一人残らず神に立ち帰ることができるように真実を語られたのです。真のキリストであるイエスさまへの行為で彼らこそがまさに神を冒涜する罪を犯そうとしていたからです。

3.見えると言い張る集まり

彼らは、ローマを倒して神の国を再建されるお方が救い主だと考えて頑なでした。なのでイエスさまを真の救い主だと認めることができませんでした。彼らは、真理が見えていないのに見えていると思い込んで、神さまの御心から離れて神さまを冒涜する罪に陥ったのです。これが「見えると言い張る罪」です。この罪から離れるために私たちは「見させてください、聞かせてください、悟らせてください」と聖霊に真理を求め続ける歩みをする必要があります。

2025713日 週報より

2025年7月6日日曜日

サタンに負けない

聖書箇所 マルコによる福音書1443-52

「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。マルコによる福音書1444

1.ユダの裏切り

ユダがイエスさまに接吻をします。当時の接吻は、弟子が師に対する最大の敬意を表す行為でした。しかしこれが裏切りの合図でした。この時もイエスさまはユダに「わたしはあなたを今も愛しています。今からでも間に合います。神に立ち帰って以前の弟子の姿で神に仕える者となるように」とユダへの愛と導きを示されています。

2.ユダの接吻

ユダは、どうして接吻を合図にしたのでしょう。考えられるのは、ユダはイエスさまの御力をよく知っていたので、その力で圧倒されないように、また逃げてしまわれないようにするためだったでしょう。ユダは接吻により、今でもイエスさまを敬愛している振りをしてイエスさまを油断させ、また混乱させて、イエスさまが確実に捕えられるようにしようとしたのです。

3.ユダから学ぶ

敬愛を示す接吻を裏切りの合図にしたユダを思う時、彼に働くサタンの恐ろしさを見ます。サタンに隙を見せないで、イエスさまから離れずにいるにはどうすれば良いのでしょうか。それは先週見たようにイエスさまに倣い、絶えず祈り続けて霊の目を開いていることです。「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい(エペソ6:18)」。聖書はこれが神の武具を身に着けて、サタンに負けないようにするための唯一の方法だと教えています。

202576日 週報より

2025年6月29日日曜日

十字架の重さを知る

聖書箇所 マルコによる福音書1437-42

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。マルコによる福音書1438

13度の祈り

イエスさまはゲッセマネの最初の祈りで勝利されました。しかしその後2度、3度と祈られています。それはイエスさまが背負われる罪が途方もなく大きく、重いものだったからです。私たちはイエスさまが身代わりとなり背負われた罪、そしてそのためにかかられた十字架の重さに目と心を向け続けなければなりません。

2.弟子に願われた祈り

人は神さまからの力に燃やされる心()を持ちながらもサタンの誘惑への弱さもあります。信仰者は霊的な目を覚まして祈ることが大切です。ここでのイエスさまの祈りに倣い、聖霊を意識して祈ることで、誘惑に陥らずに御心の内を歩ませていただけるのです。このとりなしの祈りは、イエスさまのためだけではなく、弟子たちが十字架の重みを知り、誘惑に勝つ祈りをするためでもありました。

3.示された十字架の重さ

もしイエスさまが、ゲッセマネでの苦闘をされずに十字架につかれていたらどうでしょう。人の罪がどれほど神さまの前に大きくてまた重く、罪への神さまの怒りがどれほど激しいかを悟ることはできません。神さまの前に自分の罪とその罪の重さを知って心砕かれた人が、ゲッセマネでのイエスさまの姿を正面で受けとめることができます。そしてこの時のイエスさまを弱々しいなどと決して思うことなく、示されているイエスさまの愛とイエスさまが担われた十字架の重さを心に刻むことができるのです。

2025629日 週報より