2025年8月17日日曜日

十字架~父なる神の苦しみ

聖書箇所 マルコによる福音書1533-41

イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 マルコによる福音書1539

1.苦しまれた父

親子関係の断絶は、イエスさまだけでなく、父なる神さまにとっても深い悲しみでした。その思いが3時間の暗闇であらわされたのです。そこでイエスさまは「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれます。これは「神のあなたがそんなにも苦しまなければならないのにどうしてそこまでなされるのですか。あなたの人への愛とあわれみはそれほどまでに深いのですね」との思いなのです。

2.隔ての幕の消失

イエスさまが息を引き取られた時、神殿の聖所と至聖所を仕切る幕が真二つに裂けます。至聖所には神の存在を示す契約の箱が置かれていました。ここは年に1回、大祭司だけが入ることができました。しかしこの隔ての幕が引き裂かれたことは、誰でもイエスさまを通してはばかることなく、神さまの御前に出ることができるようになったことの証明でした。

3.霊で受けとめた百卒長

百卒長は「まことに、この人は神の子であった」と言います。この発言は彼の立場を危うくするものでした。それでも、彼はこの言葉を秘めておくことができませんでした。それは彼が十字架の一部始終を霊で受けとめていたからです。人は心の奥に霊が備えられています。この霊は、神さまの言葉に触れたり、霊的事実に直面したりすることで働きます。私たちも今日示されている父なる神さまの大きくて深い愛とあわれみを霊で受けとめていきましょう。

2025817日 週報より

2025年8月10日日曜日

肉の対応を誘うこの世

聖書箇所 マルコによる福音書1521-32

イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう。 マルコによる福音書1532

1.イエスさまの目線

兵士たちは、あざけりと虐待の限りを尽くし、イエスさまを処刑場へと引いていきます。ここでイエスさまが見ておられるのは、人々の愚かで醜い姿ではありません。人々の救いという父なる神さまのご計画だけを見つめておられました。こうしてイエスさまが十字架にかかることで、私たちが罪から救われる道が備えられたのです。

2.イエスさまへのののしり

「本当に神殿を三日で建てる力があるのなら今、十字架からおりてきて自分を救え」と通りがかりの者たちがののしっています。このののしりは、イエスさまが肉による対応をされ、十字架からおり、十字架による人々の救いを妨げるためでした。実際イエスさまは、自ら十字架からおりる力をお持ちでした。しかしイエスさまは、その力を見せつけるという肉の思いをやり過ごして、何もされませんでした。世からの挑発に十字架上でじっと耐えておられました。

3.続くイエスさまへの挑発

この後も執拗にイエスさまへのののしりは続きます。それでも イエスさまは一切、肉による応答はなされませんでした。ここで  もしイエスさまが十字架からおりていかれたら、彼らはイエスさまを信じたでしょうか。いいえ、彼らはこれまでイエスさまがされた奇跡と同様にこれも悪霊の仕業だと言ってごまかしたでしょう。この世は常に信仰者が肉の思いで呼応するように誘い、執拗に挑発してきます。信じて歩む私たちは、いつも聖霊を意識しながら世の挑発に乗らずに神さまの喜ばれる選択をしていく必要があるのです。

2025810日 週報より

2025年8月3日日曜日

自分が正しいと思う罪

聖書箇所 マルコによる福音書1516-20

また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。マルコによる福音書1519

1.兵士たちの醜さ

兵士たちは、ユダヤ教の指導者たちや群衆とは違い、イエスさまへの恨みや敵対心はありませんでした。彼らがイエスさまを侮辱しなければならない理由はなかったのです。ただ弱弱しく、力ない様子のイエスさまをみて、ばかにしてイエスさまをもてあそんだのでした。ここになんとも救い難い、人の闇を見せられます。しかしこの醜さ、この愚かさを人はみな抱えているのです。

2.イエスさまの忍耐

イエスさまは兵士たちのあざけりに何の抵抗もされませんでした。神さまは私たちの罪の赦しのための十字架をイエスさまに向けられました。さらに神さまは、兵士たちのあざけりをも、イエスさまが受けるようにされたのです。これは本来私たちが受けるべき罪の懲らしめでした。このことを理解されたイエスさまは、私たちのために兵士からのあざけりを黙って受けてくださっていたのです。

3.自己中心から神さま中心に

イエスさまをばかにしてもてあそんだ兵士たちは、自分たちの醜さに気づいていませんでした。これは当然と心も痛めずに、自分は正しいと思っていました。これが私たちにある自己判断、自己中心の思いからくる罪なのです。人それぞれの正義感に基づく自己判断は、世を支配するサタンから来ています。だからそれは正しくありません。私たちはサタンから来る自己判断によらず、神さまのみ言葉を判断の基準として歩みます。そうすればこの歩みが神さま中心の歩みとされます。自分が正しいと思う罪から解放されるのです。

202583日 週報より