2025年8月3日日曜日

自分が正しいと思う罪

聖書箇所 マルコによる福音書1516-20

また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。マルコによる福音書1519

1.兵士たちの醜さ

兵士たちは、ユダヤ教の指導者たちや群衆とは違い、イエスさまへの恨みや敵対心はありませんでした。彼らがイエスさまを侮辱しなければならない理由はなかったのです。ただ弱弱しく、力ない様子のイエスさまをみて、ばかにしてイエスさまをもてあそんだのでした。ここになんとも救い難い、人の闇を見せられます。しかしこの醜さ、この愚かさを人はみな抱えているのです。

2.イエスさまの忍耐

イエスさまは兵士たちのあざけりに何の抵抗もされませんでした。神さまは私たちの罪の赦しのための十字架をイエスさまに向けられました。さらに神さまは、兵士たちのあざけりをも、イエスさまが受けるようにされたのです。これは本来私たちが受けるべき罪の懲らしめでした。このことを理解されたイエスさまは、私たちのために兵士からのあざけりを黙って受けてくださっていたのです。

3.自己中心から神さま中心に

イエスさまをばかにしてもてあそんだ兵士たちは、自分たちの醜さに気づいていませんでした。これは当然と心も痛めずに、自分は正しいと思っていました。これが私たちにある自己判断、自己中心の思いからくる罪なのです。人それぞれの正義感に基づく自己判断は、世を支配するサタンから来ています。だからそれは正しくありません。私たちはサタンから来る自己判断によらず、神さまのみ言葉を判断の基準として歩みます。そうすればこの歩みが神さま中心の歩みとされます。自分が正しいと思う罪から解放されるのです。

202583日 週報より 

2025年7月27日日曜日

良い人ピラトに見る罪

聖書箇所 マルコによる福音書151-15

ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。  マルコによる福音書1514

1.総督ピラト

イエスさまの時代にローマ帝国により、ユダヤ地方をおさめる最高責任者として派遣されていたのが総督ピラトでした。ユダヤの指導者たちがイエスさまを十字架にかけるには、ローマ政府の許可、ここではピラトの承認が必要でした。それで彼らはピラトの官邸にイエスさまを連行していったのです。

2.十字架刑を許可したピラト

ユダヤ人たちは、身を汚せば過越しの食事ができなくなります。そこで彼らは異邦人であるピラトの居住域に入ろうとはせず、ピラトに彼らのいる場所まで出向かせています。ピラトはイエスさまに死刑に値する罪がないことはわかっていました。しかし自分の立場が悪くなることを恐れ、イエスさまの十字架刑を許可します。

3.世の人の代表ピラト

ピラトは信仰を持たない世の人の代表として描かれています。 信仰がなくても心の広い人、善行を行う人はたくさんいます。ピラトも悪い人ではありませんでした。しかし結局、罪のないイエスさまを死刑に定めます。正しいことが分かっていても正しく行動できない。これが罪の力です。全ての人にこの罪の力が及んでいます。逃れる道はただ1つしかありません。神さまは、イエスさまの十字架の死と復活を信じるすべての者の罪を赦し、罪の力から解放してくださるのです。イエスさまは、私たちを人として正しく、当たり前のことを当たり前にできるように導いてくださいます。

2025727日 週報より

2025年7月20日日曜日

失敗したペテロに学ぶ

聖書箇所 マルコによる福音書1466-72

ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。マルコによる福音書1472

1.知らないと言ったペテロ

「あなたもあのイエスと一緒だった」と指摘されたペテロは、「わたしは知らない」と自分を守るための言い逃れをします。この時のペテロは、人間的な肉の思いで(神さまを見ず、信仰の働かない状況で)立っていたので、自分が何をしているのかも分からなくなっていました。信じて聖霊をいただいている私たちも肉の思いで行動する弱さがあります。ペテロと同じ失敗をする危険がいつもあるのです。

2.ペテロの否定したもの

にわとりが二度目に鳴いてペテロはハッとさせられます。そしてイエスさまを裏切った自分の情けなさに打ちのめされ、泣き続けました。イエスの弟子であることを否定したペテロは、神さまにある生き方だけでなく、神さまご自身をも否定してしまったのです。私たちも知らずに神さまを否定してしまわないように注意が必要です。お言葉に照らし、何が神さまに喜ばれるのかを吟味するのです。

3.ペテロに倣う

ペテロは、「わたしはつまずきません」と豪語していました。しかし、自分の情けなさに激しく打ちのめされ心砕かれました。私たちもペテロに倣い、神さまの前に自分は何の力も値もない者だと心を低くまた柔らかくいたしましょう。そしてイエスさまに頼り切って歩むのです。そのためには私たちの羊飼いであるイエスさまの声を聞く必要があります。聖書は聖霊に従う者が肉によらず、牧者であるイエスさまの声に聞き従って歩めることを教えています。

2025720日週報より