2025年7月27日日曜日

良い人ピラトに見る罪

聖書箇所 マルコによる福音書151-15

ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。  マルコによる福音書1514

1.総督ピラト

イエスさまの時代にローマ帝国により、ユダヤ地方をおさめる最高責任者として派遣されていたのが総督ピラトでした。ユダヤの指導者たちがイエスさまを十字架にかけるには、ローマ政府の許可、ここではピラトの承認が必要でした。それで彼らはピラトの官邸にイエスさまを連行していったのです。

2.十字架刑を許可したピラト

ユダヤ人たちは、身を汚せば過越しの食事ができなくなります。そこで彼らは異邦人であるピラトの居住域に入ろうとはせず、ピラトに彼らのいる場所まで出向かせています。ピラトはイエスさまに死刑に値する罪がないことはわかっていました。しかし自分の立場が悪くなることを恐れ、イエスさまの十字架刑を許可します。

3.世の人の代表ピラト

ピラトは信仰を持たない世の人の代表として描かれています。 信仰がなくても心の広い人、善行を行う人はたくさんいます。ピラトも悪い人ではありませんでした。しかし結局、罪のないイエスさまを死刑に定めます。正しいことが分かっていても正しく行動できない。これが罪の力です。全ての人にこの罪の力が及んでいます。逃れる道はただ1つしかありません。神さまは、イエスさまの十字架の死と復活を信じるすべての者の罪を赦し、罪の力から解放してくださるのです。イエスさまは、私たちを人として正しく、当たり前のことを当たり前にできるように導いてくださいます。

2025727日 週報より

2025年7月20日日曜日

失敗したペテロに学ぶ

聖書箇所 マルコによる福音書1466-72

ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。マルコによる福音書1472

1.知らないと言ったペテロ

「あなたもあのイエスと一緒だった」と指摘されたペテロは、「わたしは知らない」と自分を守るための言い逃れをします。この時のペテロは、人間的な肉の思いで(神さまを見ず、信仰の働かない状況で)立っていたので、自分が何をしているのかも分からなくなっていました。信じて聖霊をいただいている私たちも肉の思いで行動する弱さがあります。ペテロと同じ失敗をする危険がいつもあるのです。

2.ペテロの否定したもの

にわとりが二度目に鳴いてペテロはハッとさせられます。そしてイエスさまを裏切った自分の情けなさに打ちのめされ、泣き続けました。イエスの弟子であることを否定したペテロは、神さまにある生き方だけでなく、神さまご自身をも否定してしまったのです。私たちも知らずに神さまを否定してしまわないように注意が必要です。お言葉に照らし、何が神さまに喜ばれるのかを吟味するのです。

3.ペテロに倣う

ペテロは、「わたしはつまずきません」と豪語していました。しかし、自分の情けなさに激しく打ちのめされ心砕かれました。私たちもペテロに倣い、神さまの前に自分は何の力も値もない者だと心を低くまた柔らかくいたしましょう。そしてイエスさまに頼り切って歩むのです。そのためには私たちの羊飼いであるイエスさまの声を聞く必要があります。聖書は聖霊に従う者が肉によらず、牧者であるイエスさまの声に聞き従って歩めることを教えています。

2025720日週報より

2025年7月13日日曜日

見えると言い張る罪

聖書箇所 マルコによる福音書1453-65

すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。 マルコによる福音書1464

1.死刑を目的とした集まり

イエスさまを死刑にする証拠がための裁判が大祭司のところで開かれます。イエスさまは死刑になるようなことは何もしていません。彼らは証言をするのですが、偽証であるがゆえに一致しませんでした。そこでイエスさまに語らせて、イエスさまの口より証拠となるべき言葉を引出そうとします。しかし、イエスさまは彼らの考えが良くわかっていたので何もお答えになりませんでした。

2.神を冒涜(ぼうとく)する集まり

業を煮やした大祭司は、「あなたは神の子、キリスト(救い主)か」と問いただします。キリストではない者が自分をキリストだと言えば、神を冒涜する罪に問えるからです。するとイエスさまは「わたしがそれである」と答えられます。ご自分を殺そうとしている者たちが一人残らず神に立ち帰ることができるように真実を語られたのです。真のキリストであるイエスさまへの行為で彼らこそがまさに神を冒涜する罪を犯そうとしていたからです。

3.見えると言い張る集まり

彼らは、ローマを倒して神の国を再建されるお方が救い主だと考えて頑なでした。なのでイエスさまを真の救い主だと認めることができませんでした。彼らは、真理が見えていないのに見えていると思い込んで、神さまの御心から離れて神さまを冒涜する罪に陥ったのです。これが「見えると言い張る罪」です。この罪から離れるために私たちは「見させてください、聞かせてください、悟らせてください」と聖霊に真理を求め続ける歩みをする必要があります。

2025713日 週報より