自分が正しいと思う罪
聖書箇所 マルコによる福音書15章16-20節
また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。マルコによる福音書15章19節
1.兵士たちの醜さ
兵士たちは、ユダヤ教の指導者たちや群衆とは違い、イエスさまへの恨みや敵対心はありませんでした。彼らがイエスさまを侮辱しなければならない理由はなかったのです。ただ弱弱しく、力ない様子のイエスさまをみて、ばかにしてイエスさまをもてあそんだのでした。ここになんとも救い難い、人の闇を見せられます。しかしこの醜さ、この愚かさを人はみな抱えているのです。
2.イエスさまの忍耐
イエスさまは兵士たちのあざけりに何の抵抗もされませんでした。神さまは私たちの罪の赦しのための十字架をイエスさまに向けられました。さらに神さまは、兵士たちのあざけりをも、イエスさまが受けるようにされたのです。これは本来私たちが受けるべき罪の懲らしめでした。このことを理解されたイエスさまは、私たちのために兵士からのあざけりを黙って受けてくださっていたのです。
3.自己中心から神さま中心に
イエスさまをばかにしてもてあそんだ兵士たちは、自分たちの醜さに気づいていませんでした。これは当然と心も痛めずに、自分は正しいと思っていました。これが私たちにある自己判断、自己中心の思いからくる罪なのです。人それぞれの正義感に基づく自己判断は、世を支配するサタンから来ています。だからそれは正しくありません。私たちはサタンから来る自己判断によらず、神さまのみ言葉を判断の基準として歩みます。そうすればこの歩みが神さま中心の歩みとされます。自分が正しいと思う罪から解放されるのです。
2025年8月3日 週報より