2025年7月20日日曜日

失敗したペテロに学ぶ

聖書箇所 マルコによる福音書1466-72

ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。マルコによる福音書1472

1.知らないと言ったペテロ

「あなたもあのイエスと一緒だった」と指摘されたペテロは、「わたしは知らない」と自分を守るための言い逃れをします。この時のペテロは、人間的な肉の思いで(神さまを見ず、信仰の働かない状況で)立っていたので、自分が何をしているのかも分からなくなっていました。信じて聖霊をいただいている私たちも肉の思いで行動する弱さがあります。ペテロと同じ失敗をする危険がいつもあるのです。

2.ペテロの否定したもの

にわとりが二度目に鳴いてペテロはハッとさせられます。そしてイエスさまを裏切った自分の情けなさに打ちのめされ、泣き続けました。イエスの弟子であることを否定したペテロは、神さまにある生き方だけでなく、神さまご自身をも否定してしまったのです。私たちも知らずに神さまを否定してしまわないように注意が必要です。お言葉に照らし、何が神さまに喜ばれるのかを吟味するのです。

3.ペテロに倣う

ペテロは、「わたしはつまずきません」と豪語していました。しかし、自分の情けなさに激しく打ちのめされ心砕かれました。私たちもペテロに倣い、神さまの前に自分は何の力も値もない者だと心を低くまた柔らかくいたしましょう。そしてイエスさまに頼り切って歩むのです。そのためには私たちの羊飼いであるイエスさまの声を聞く必要があります。聖書は聖霊に従う者が肉によらず、牧者であるイエスさまの声に聞き従って歩めることを教えています。

2025720日週報より

2025年7月13日日曜日

見えると言い張る罪

聖書箇所 マルコによる福音書1453-65

すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。 マルコによる福音書1464

1.死刑を目的とした集まり

イエスさまを死刑にする証拠がための裁判が大祭司のところで開かれます。イエスさまは死刑になるようなことは何もしていません。彼らは証言をするのですが、偽証であるがゆえに一致しませんでした。そこでイエスさまに語らせて、イエスさまの口より証拠となるべき言葉を引出そうとします。しかし、イエスさまは彼らの考えが良くわかっていたので何もお答えになりませんでした。

2.神を冒涜(ぼうとく)する集まり

業を煮やした大祭司は、「あなたは神の子、キリスト(救い主)か」と問いただします。キリストではない者が自分をキリストだと言えば、神を冒涜する罪に問えるからです。するとイエスさまは「わたしがそれである」と答えられます。ご自分を殺そうとしている者たちが一人残らず神に立ち帰ることができるように真実を語られたのです。真のキリストであるイエスさまへの行為で彼らこそがまさに神を冒涜する罪を犯そうとしていたからです。

3.見えると言い張る集まり

彼らは、ローマを倒して神の国を再建されるお方が救い主だと考えて頑なでした。なのでイエスさまを真の救い主だと認めることができませんでした。彼らは、真理が見えていないのに見えていると思い込んで、神さまの御心から離れて神さまを冒涜する罪に陥ったのです。これが「見えると言い張る罪」です。この罪から離れるために私たちは「見させてください、聞かせてください、悟らせてください」と聖霊に真理を求め続ける歩みをする必要があります。

2025713日 週報より

2025年7月6日日曜日

サタンに負けない

聖書箇所 マルコによる福音書1443-52

「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。マルコによる福音書1444

1.ユダの裏切り

ユダがイエスさまに接吻をします。当時の接吻は、弟子が師に対する最大の敬意を表す行為でした。しかしこれが裏切りの合図でした。この時もイエスさまはユダに「わたしはあなたを今も愛しています。今からでも間に合います。神に立ち帰って以前の弟子の姿で神に仕える者となるように」とユダへの愛と導きを示されています。

2.ユダの接吻

ユダは、どうして接吻を合図にしたのでしょう。考えられるのは、ユダはイエスさまの御力をよく知っていたので、その力で圧倒されないように、また逃げてしまわれないようにするためだったでしょう。ユダは接吻により、今でもイエスさまを敬愛している振りをしてイエスさまを油断させ、また混乱させて、イエスさまが確実に捕えられるようにしようとしたのです。

3.ユダから学ぶ

敬愛を示す接吻を裏切りの合図にしたユダを思う時、彼に働くサタンの恐ろしさを見ます。サタンに隙を見せないで、イエスさまから離れずにいるにはどうすれば良いのでしょうか。それは先週見たようにイエスさまに倣い、絶えず祈り続けて霊の目を開いていることです。「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい(エペソ6:18)」。聖書はこれが神の武具を身に着けて、サタンに負けないようにするための唯一の方法だと教えています。

202576日 週報より