2025年10月12日日曜日

十字架のキリスト

聖書箇所 コリント人への第一の手紙118-25

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。  コリント118

1.十字架のことば

パウロは、コリントの教会で起こっていた分派争いを、キリストの十字架の恵みを台なしにする愚かな行為だと諭しました。人の知恵で理解しようとする者には、十字架はただの愚かさに見えますが、信じる者には神の力そのものです。パウロは「神の知恵」ではなく「神の力」と語ります。十字架の真理は頭で理解するものではなく、霊によって受け取るものであることを教えているのです。

2.この世の知恵の愚かさ

神さまはこの世の知恵を無力なものとされました。人の知恵では神さまを知ることはできません。ですから神さまは、あえて「宣教の愚かさ」を通して信じる者を救う道を備えられたのです。福音は人を納得させるための理論ではなく、御霊によって心に語られる神さまのことばです。御霊の助けによってこそ、私たちは神の知恵を霊的に理解し、真の信仰に生きることができるのです。

3.十字架に示された神の力

ユダヤ人はしるしを、ギリシア人は知恵を求めました。しかし パウロは、十字架につけられたキリストこそ神の力、神の知恵であると言います。十字架は罪の赦しだけでなく、神の救いのご計画全体を示すものです。信じる者は、理屈ではなく信仰をもってその恵みを受け取り、御霊に導かれてひとつ心に結ばれていきます。そうして互いに愛し合い、仕え合う群れとして、私たちも歩んでまいりましょう。

20251012日 週報より

2025年10月6日月曜日

宗教の勘違い~思い込みから正しい理解へ

人は神、仏の前に裁きを受けるのか

聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1-6節

ここでは「善悪に基づく裁き」について、宗教的・思想的な視点から深く考察して語られました。冒頭では天秤座の神話を通じて、善悪の判断と裁きの象徴性が紹介され、人間の本性について中国思想の性善説・性悪説・混合説の三つの立場が示されます。現代社会の例として、企業の会計不正が性善説に基づく制度設計の甘さに起因することが指摘されました。聖書の「金銭を愛することはすべての悪の根源」という教えが引用され、人間の罪の性質が強調されました。

仏教における裁きの概念として、閻魔大王による死後の裁きと六道輪廻が説明され、地獄道から天道までの六つの世界への転生が、生前の行いによって決定されるとされます。また、庚申講の習慣では、三しの虫が人の罪を天帝に報告するという信仰が紹介され、仏教においても裁きの存在が明確であることが示されます。

一方、キリスト教では、ヘブル人への手紙に基づき、人は一度死に、その後神の裁きを受けるとされます。しかしキリストが人々の罪を背負って十字架にかかったことにより、信じる者には裁きではなく救いが与えられると説かれます。結論として、善悪の行いではなく、キリストへの信仰こそが救いの鍵であり、魂の永遠の行き先を左右する重要な教えであると結づけられました。

宗教の勘違い~思い込みから正しい理解へ

身近なものからのキリスト教入門~日本の唱歌と讃美歌の意外なつながり

聖書箇所 ヨハネによる福音書8章31-32節

このメッセージでは、クリスチャンになる本質的な意味について語られました。多くの人が洗礼を受けることでクリスチャンになると考えがちですが、それは誤解であり、真のクリスチャンとはキリストを信じ、その言葉にとどまり、信仰を実生活で実践する者であると説かれました。

ヨハネによる福音書8章31~32節の言葉を中心に、真理を知ることが自由につながるとし、4つの讃美歌を通じて信仰の実践の姿が描かれました。

「埴生の宿」では地上の家を愛するように天の家を見出す希望を、「大きな古時計」では困難な人生の中でも神の守りと救いを信じる姿を、「Day by Day」では病や家族の死、宗教的制限を乗り越えて信仰を貫く力を、「いつくしみ深き」では深い悲しみの中でも祈りによって神の導きを求める姿勢を示しています。これらの例は、形式的な洗礼や宗教的背景だけではなく、日々の生活の中で信仰を生きることこそが、真のクリスチャンであることを示しており、キリストにある自由と弟子としての歩みの重要性が強調されました。