2026年8月23日日曜日

御霊に目を向けて

聖書箇所 コリント人への第一の手紙121-11

各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。コリント127

1.注目された異言

コリント教会では、御霊ご自身よりも、目に見える特別な賜物である異言に注目し、それを立派な信仰のしるしとして誇る傾向がありました。そこには、異教時代の「神がかり的な状態を尊ぶ」古い感覚も影響していたと考えられます。私たちも奉仕や賜物を人と比較することなく、御霊の内住を喜び、キリストの十字架だけを誇る者でありたいと教えられています。

2.御霊の賜物

御霊の賜物は、自分を誇るためではなく、「全体の益となるため」に御霊が一人一人に与えてくださる恵みです。大切なのは「私は何ができるか」ではなく、「主が私を用いて、誰かをキリストに近づけ、群れの成長のために用いてくださっている」と受け止めることです。賜物に注目するのではなくて、御霊に目をむけて、御霊に導かれて互いに仕え合うことが求められています。

3.内住の御霊

御霊は一人一人の内に住み、私たち信仰者を群の中で成長し合うように導かれます。教会全体の成長を重んじて御霊は働かれるのです。私たちは自分の賜物を誇るのではなく、御霊に変えられ、群れの益のために用いられる神さまの道具となることが大切です。私たちは肉の思いに支配される古い皮袋ではなく、御霊に導かれる新しい皮袋です。そこに新しいぶどう酒が満たされるのです。それが、キリストを主とし、愛をもって賜物を用いて歩む信仰者の姿です。

2026823日 週報より

2026年8月16日日曜日

聖餐式に見るキリストの心

聖書箇所 コリント人への第一の手紙1123-32

だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。コリント1127

1.霊的意味合いの確認

聖餐式は、形だけを厳かに行う儀式ではありません。キリストの十字架による罪の赦しと、流された血による新しい契約の恵みを、自分自身のこととして確認するものです。「私は罪赦され、神の民とされている」との霊的事実に立ち、礼拝、御言葉、祈り、感謝が形だけになっていないかを自ら省み、主との真実な関係を確かめるために与えられている機会です。

2.繰り返すメリット

聖餐式を繰り返し行うのは、キリストの死と与えられた救いの恵みを、何度も思い起こして心に刻むためです。確かに繰り返すことで形式化する恐れがあります。そうであっても、人は神さまの恵みを忘れやすい存在です。なのでこの恵みを繰り返し確認することが必要です。「誰が私のために死んでくださったのか」「私は今どんな恵みの中にいるのか」を繰り返し覚えることが大切なのです。

3.ふさわしくない態度

コリント教会では、聖餐式が形だけになっていました。「ふさわしくない」態度とは、自分が弱さの中にあるにもかかわらず、キリストの十字架による赦しと新しい契約の恵みを受けとめられていないことです。また、「自分を吟味する」とは自分を責めることではありません。今も十字架の恵みを信じ、神さまに信頼して歩んでいるかを確かめることです。聖餐式は裁きの場ではなく、福音に立ち返り、神さまへの信頼による恵みを新たに受け取る場なのです。

2026816日 週報より

2026年8月9日日曜日

キリストにある群れ

聖書箇所 コリント人への第一の手紙1117-34

それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。  コリント1133節より

1.乱れた愛餐

当時は、愛餐と聖餐式が一緒に行われていました。しかしコリント教会では、早めに来た人たちが、先に飲んだり食べたりしていたのです。そうなれば、あとで来た信徒の分は無くなり、酔う者までいる始末でした。互いを思いやる愛が失われていたのです。教会の霊性と秩序は乱れ、神さまに喜ばれる群れではなくなっていました。

2.ただの宴会

パウロは、彼らの愛餐を「神の教会を軽んじ、貧しい人を恥じさせるもの」だと戒めました。本来、愛餐は愛によって持てる人が持ち寄り、キリストにある人々と、食事をともにするものでした。しかしコリント教会では、ただの宴会となり、貧しい人を排除し、恥ずかしめていました。彼らは、教会が一つとされたキリストのからだであり、互いを尊び愛を示す群れであることを忘れていたのです。

3.正しい愛餐

パウロは、正しい愛餐のために「互いに待ちなさい」と勧めます。それは全員で食卓を囲み、一つの群れとして愛を実践するためです。教会は年齢や立場を超えて、キリストにあって一つとされた神さまの共同体です。礼拝や祈り会も、自分のためだけでなく互いを励まし、聖霊の導きを求めて集う時です。私たちが自己中心を捨て、聖霊に従って歩むとき、教会全体が霊的に成長し、神さまの豊かな祝福を受ける群れとなります。そして群れの一人一人も霊的成長とともに大いなる祝福が与えられるのです。

202689日 週報より