2025年8月10日日曜日

肉の対応を誘うこの世

聖書箇所 マルコによる福音書1521-32

イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう。 マルコによる福音書1532

1.イエスさまの目線

兵士たちは、あざけりと虐待の限りを尽くし、イエスさまを処刑場へと引いていきます。ここでイエスさまが見ておられるのは、人々の愚かで醜い姿ではありません。人々の救いという父なる神さまのご計画だけを見つめておられました。こうしてイエスさまが十字架にかかることで、私たちが罪から救われる道が備えられたのです。

2.イエスさまへのののしり

「本当に神殿を三日で建てる力があるのなら今、十字架からおりてきて自分を救え」と通りがかりの者たちがののしっています。このののしりは、イエスさまが肉による対応をされ、十字架からおり、十字架による人々の救いを妨げるためでした。実際イエスさまは、自ら十字架からおりる力をお持ちでした。しかしイエスさまは、その力を見せつけるという肉の思いをやり過ごして、何もされませんでした。世からの挑発に十字架上でじっと耐えておられました。

3.続くイエスさまへの挑発

この後も執拗にイエスさまへのののしりは続きます。それでも イエスさまは一切、肉による応答はなされませんでした。ここで  もしイエスさまが十字架からおりていかれたら、彼らはイエスさまを信じたでしょうか。いいえ、彼らはこれまでイエスさまがされた奇跡と同様にこれも悪霊の仕業だと言ってごまかしたでしょう。この世は常に信仰者が肉の思いで呼応するように誘い、執拗に挑発してきます。信じて歩む私たちは、いつも聖霊を意識しながら世の挑発に乗らずに神さまの喜ばれる選択をしていく必要があるのです。

2025810日 週報より

2025年8月3日日曜日

自分が正しいと思う罪

聖書箇所 マルコによる福音書1516-20

また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。マルコによる福音書1519

1.兵士たちの醜さ

兵士たちは、ユダヤ教の指導者たちや群衆とは違い、イエスさまへの恨みや敵対心はありませんでした。彼らがイエスさまを侮辱しなければならない理由はなかったのです。ただ弱弱しく、力ない様子のイエスさまをみて、ばかにしてイエスさまをもてあそんだのでした。ここになんとも救い難い、人の闇を見せられます。しかしこの醜さ、この愚かさを人はみな抱えているのです。

2.イエスさまの忍耐

イエスさまは兵士たちのあざけりに何の抵抗もされませんでした。神さまは私たちの罪の赦しのための十字架をイエスさまに向けられました。さらに神さまは、兵士たちのあざけりをも、イエスさまが受けるようにされたのです。これは本来私たちが受けるべき罪の懲らしめでした。このことを理解されたイエスさまは、私たちのために兵士からのあざけりを黙って受けてくださっていたのです。

3.自己中心から神さま中心に

イエスさまをばかにしてもてあそんだ兵士たちは、自分たちの醜さに気づいていませんでした。これは当然と心も痛めずに、自分は正しいと思っていました。これが私たちにある自己判断、自己中心の思いからくる罪なのです。人それぞれの正義感に基づく自己判断は、世を支配するサタンから来ています。だからそれは正しくありません。私たちはサタンから来る自己判断によらず、神さまのみ言葉を判断の基準として歩みます。そうすればこの歩みが神さま中心の歩みとされます。自分が正しいと思う罪から解放されるのです。

202583日 週報より 

2025年7月27日日曜日

良い人ピラトに見る罪

聖書箇所 マルコによる福音書151-15

ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。  マルコによる福音書1514

1.総督ピラト

イエスさまの時代にローマ帝国により、ユダヤ地方をおさめる最高責任者として派遣されていたのが総督ピラトでした。ユダヤの指導者たちがイエスさまを十字架にかけるには、ローマ政府の許可、ここではピラトの承認が必要でした。それで彼らはピラトの官邸にイエスさまを連行していったのです。

2.十字架刑を許可したピラト

ユダヤ人たちは、身を汚せば過越しの食事ができなくなります。そこで彼らは異邦人であるピラトの居住域に入ろうとはせず、ピラトに彼らのいる場所まで出向かせています。ピラトはイエスさまに死刑に値する罪がないことはわかっていました。しかし自分の立場が悪くなることを恐れ、イエスさまの十字架刑を許可します。

3.世の人の代表ピラト

ピラトは信仰を持たない世の人の代表として描かれています。 信仰がなくても心の広い人、善行を行う人はたくさんいます。ピラトも悪い人ではありませんでした。しかし結局、罪のないイエスさまを死刑に定めます。正しいことが分かっていても正しく行動できない。これが罪の力です。全ての人にこの罪の力が及んでいます。逃れる道はただ1つしかありません。神さまは、イエスさまの十字架の死と復活を信じるすべての者の罪を赦し、罪の力から解放してくださるのです。イエスさまは、私たちを人として正しく、当たり前のことを当たり前にできるように導いてくださいます。

2025727日 週報より